本来の姿

ヨーガ・スートラには、
「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである」
「その時、見る物は本来の姿にとどまる」とあります。



そのスートラを解説している
「現代人のためのヨーガ・スートラ」 
グレゴール・メーレ著
から引用します。


瞑想は、内面へと向かう退行の行為である。瞑想の第一段階は、自分の体を観察することである。観察することによって観察者、つまり見る者と見られるものとは異なることが認識できる。そして自分は体なのではなく、むしろ体を所有しているのだということがわかる。次の段階は、マインドを観察することである。
(中略)
ここから次に、もっと深いところにある自我を観察するようになる。この観察は最初のうち大変難しいが、瞑想を実践することによって間もなく、私たちの中にあって「私」と主張する機能を観察し、分離し、探究できるようになる。
(中略)
人間とは、一方の意識(プルシャ)ともう一方の具現(プラクリティ)との橋渡しをする存在である。私たちの中核を成す意識は他を知覚しても知覚されることはなく、私たちは自分の姿を現象の世界に投影する。そして、自我意識を持った体/マインドなどの現象を自分自身であると信じるのである。自己の本来の姿の中にとどまるというのは、ただ自己を外へ投影することをやめることである。外へ投影するというのは、知覚したものと自分を同一視することを意味する。この投影をやめることが中核にとどまることであり、それは世界や自分の体とマインドが過ぎ去っていくのを観照することを意味する。見る者の本質は、気づきである。気づきという自分の本来の姿の中にとどまるのは、ただ私たちは気づきであることを理解し、それを見失わないようにすることなのだ。
(中略)
私たちの中核には不変で無限の至福と気づきがあり、これが真の本質、真実、本来の状態、意識、あるいは自己と呼ばれるものである。私たちは誤って心のはたらきと自分を同一視し、そのためこの状態を認識していないのだ。心のはたらき(ヴリッティ)が止めば、私たちは本来の状態へ戻るのである。
(中略)
そばに何もない状態で水晶を見つめれば、私たちは水晶自体を見ることができる。しかし、水晶のそばに赤いバラを置けば、水晶はバラの色を帯び、水晶を見つめる私たちにはバラしか見えない。しかし実際は、この過程で水晶の本質が変わったわけではまったくない。同様に、対象のないサマーディの状態のときには、意識はそれ自体の中にとどまっている。実際には、意識は常にそれ自体の中にとどまっているのに、そうは見えないだけなのである。水晶同様、対象によって色づけされたように見えているのだ。そして水晶同様、物体を除けば意識自体は変わっていないことが理解できるのである。


ちょっと難しいですが、最後の例が分かりやすいのではないでしょうか。

私たちの心は本来は無限の至福、全てを観照し映し出す気づきそのもの。 

でも心のはたらきと自分を同一視してしまうと、あらゆる思考、それ自体が自分だと思ってしまう。それにより本来の心が見えなくなっている。

私の心は、今感じていることをうつしだしているもの「そのもの」である。
感じていることではなくて。

水晶のように、本質は透明でピカピカで綺麗で、至福でいっぱい。
そこには何でもうつすことができる。
あまりにも上手にうつせるので、それ自体と一体化してしまう。
さらにそこから色々考えすぎ、より複雑にしてしまう。心にうつった(反応した)目の前にあるものだけがリアルな現実だと思うようになる。
たくさんの思いこみがリアルだと感じるようになる。
心はそれをそのままうつして観察していく、その繰り返し。


思いこみを外し、思考や言葉と同一化するのをやめ、頭をゼロに戻した時、
本来の心の輝きに気づく。
いかに複雑に頭=マインドを使いすぎていたかが分かる。


本来の心に戻った時、自分のするべきことが見えるようになる。
ただ愛と気づきの意識になって、周りへ貢献したいと思うようになる。


私も油断するとすぐ思考と同一化してしまいますが(笑)、
常に観察観察。
全てに気づき、全てを頭で判断せず、
全てを愛する意識でいたい。
その方が心は楽だから☺︎
対立ほど疲れるものはない。


ヨーガ・スートラ、難解なところもありますが読み続けてみたいと思います(^_^*)