モノへの虐待?



なぜ私たちは必要ではないモノを買ってしまうのだろう?


前回もそのことについてみましたが、
今日はさらに深い心の欲をみてみたいと思います。


私たちはモノを通して、

自分の価値を示そうとする。

モノはその手段になっている。



モノを手にいれたいと思う心の裏には、
こんな欲がさらに隠れている。




例えば家。
みんなが羨ましいと感じるような、
広い綺麗な家を買いたい。
そのくらいの経済力があることを示したい。


例えば車。
そのメーカーの、最高ランクの車が欲しい。
そのくらい余裕があるということを示したい。


例えば本。
たくさんたくさんいろんな分野の本を揃える(そして読めていない本も多い)。
誰かが本棚を見た時、
自分はこんなに本を読んでいて勉強家、知識豊富なことを示したい。



例えば服。
たくさんの服を揃えて、自分にはそのくらいの余裕があること、そしてセンスがあることを示したい。
周りから可愛いね、綺麗だねって思われたい。




「誰かにすごいねと思われるために、そのモノを持ちたい」




そんな欲が隠れてないでしょうか。
その「誰か」って誰なんでしょう?
自分でも対して関わりのない、好きでもない人達?
(そしてそのモノが、人になってしまっている場合もあるかもしれない)



その奥にある、本当の欲は、

「自分には価値がある」と感じたい、

そこに集約される気がします。

 

そして残念なことに、
その欲はモノでは埋まらないのです。
20年欲を見つめてきた私の結論(笑)




まるで、外見がいいだけの彼氏みたい。
だって、そのモノの本質を、本当の意味では見ていないし、愛してないんだもの。
(もちろん形から入って本当に愛することもあるだろうけれど笑)
そのモノがどんな過程を経て今自分の手にあるのか、その旅にまで心を寄せたりはしない。



高校生の頃、斎藤一人さんの本の一節を読んで衝撃をうけました。


「すごいと思われたいこと自体がすごくない」



その頃の自分は、モノを通して、または外見を着飾ることで、自分の価値を示し、「モノがある、だから価値がある」と思いこんでいるところがありました。
そしてこの一節を読んで、本当にそうだ、と。

私は誰の気をひこうとしているんだろう?

どうとも思ってもいない人を感心させて、

それが何になるんだろう、と。


それは後にモテ本を書く時にも基本的な価値観となりました。
本当に好きな人に大切に愛されること、
それがモテるということ。
不特定多数の人にモテても、本当に面倒くさいだけ(笑)




そのモノの本質を、見ていますか?
そのモノを、愛してますか?